今年4月、群馬県藤岡市の関越自動車道で起こった高速バス事故は、7人の乗客が死亡し、39人が重軽傷を負うという極めて凄惨なものとなった。高速バスの規制緩和や、長時間労働の弊害など、さまざまな角度からこの事故の検証が行われている。

そしてもうひとつ、このバスを運転していた河野化山容疑者が1993年12月、24歳のときに日本に帰国した中国残留孤児2世だったことから、彼ら中国残留孤児(正式には中国帰国者といわれる)が置かれた生活環境にも耳目が集まった。

 「残留孤児として日本に帰国した人は、現在2,000人あまりいます。2世・3世や配偶者を含めると、数万人が日本社会の中で生活しているでしょうね」と話すのはNPO法人「 中国帰国者・日中友好の会」代表の池田澄江氏。彼女自身も中国残留孤児として、肉親を探すために81年に帰国した。

 一般に、中国帰国者やその家族たちの生活は過酷を極めているのだという。河野容疑者のように低賃金労働に従事することもあれば、一部の者は裏社会に身を浸し「怒羅権」などのマフィアグループに加わることもある。

■ほとんどの人が生活保護をもらっている

 第二次世界大戦終結後の中国から引き揚げてくる際に取り残された孤児たちの帰国活動は、80年代より本格化した。日本人の血が流れているものの、幼い頃から中国の地で育った彼らにとって、日本の言葉も生活文化も外国そのもの。当然、仕事を探すのも決して容易いことではない。

「日本人なのに、日本を愛しているのに、言葉の問題で仕事も得られず私たちは日本社会に馴染むことができない。地獄のような生活です」

 そう話す池田氏は81年、37歳のときに帰国し、弁護士事務所で働きながら30年にわたって日本で生活をしてきた。インタビュー中、語学力になんら問題はないものの、発音やイントネーションなど、どこか“中国人”らしい日本語に聞こえる。

 中国から日本にやってきた帰国者やその家族たちは、所沢にある「中国帰国者定着促進センター」で日本語や社会習慣を勉強する。ただし、その期間はわずか4カ月間。90年代に入り各地に「中国帰国者支援交流センター」が設置され、さらに8カ月間勉強できるようになったものの、合計しても1年間しか学習の機会は与えられない。

「10代の若者ならともかく、帰国者の多くは40代や50代の人ばかり。1年程度では、言葉や文化を習得するのは困難です。その結果、仕事にあぶれ、社会の枠組みからはみ出してしまう。

生活保護をもらっている人も、とても多いのが現状です」(同)

 NPO法人「中国帰国者・日中友好の会」は、そんな彼らに対して、いつでも日本語や日本文化を学べるようにという目的で08年に設立された。現在、会員数は300人程度。国からの援助は受けておらず、運営に必要な経費は、餃子の販売や、支援者からの寄付で賄っている。
 
「02年に裁判を起こして、ようやく07年に、中国帰国者に対する国民年金の支給が認められました。月6万6,000円。このお金が支給されることによって、中国帰国者はとても暮らしやすくなったんです」(同)


■20年間の努力が一瞬で消えた

 この裁判を通じて、池田氏は河野容疑者の両親とも旧知の仲となった。

「彼の両親は、帰国してからとにかく頑張る人でした。裁判に向けた会合の際も、面倒だからといって顔を出さなくなってしまう人が多い中、休むことなく顔を出してくれていたんです。事故が起こった後に電話をしたんですが、両親とも苦しみのあまり倒れてしまっていた。『自分たちが悪いので何も言えない』そう繰り返していましたね。河野さん一家は、日本に来て、昼夜を問わず死に物狂いで働いて、ようやく今の生活を手に入れたのに、今回の事故ですべてパーになってしまった。私たちも、いまだになんと声をかけたらいいのかわかりません」

 20年間にわたる努力は、長時間労働のもたらした一瞬の気の緩みによって、台無しになってしまった。

だからといって、この事故を起こした責任を擁護することはできないが、その裏で積み重ねられてきた苦しみや努力の大きさに思いをはせると、どこかやるせなさが募る。

 いったい、残留孤児やその家族たちに対してなされるべき支援とはなんだろうか?

「残留孤児として取り残された人々は、貧しい家に引き取られた人が多く、半分くらいの人が子どもの頃に教育すら受けられませんでした。数カ月から1年間という短い期間だけではなく、仕事をしながら日本語の学習を続けられるようにしてほしいですね」(同)

 同時に、彼らは日本人であるにもかかわらず「外国人」に向けられる偏見とも戦っていかなければならない。

「中国にいれば日本人と言われます。私も、それでずっといじめられていました。でも日本では、言葉ができないから日本人と認められない人がほとんどなんです。

『中国に帰れ』と罵られることもあります。けれども、もちろん心優しい人も多い。私の場合は、日本に帰ってきて兄弟も見つかったし、自分の本当の出生もわかりました。人間関係や仕事に恵まれたのも幸運でした。日本に帰ってこられて、本当によかったと思っています」(同)

 日本人と中国人の間で生きる帰国者たち。中国に置き去りにされ、やっとの思いで日本に帰国した彼らを待ち受けるのが、低賃金労働やマフィアの世界ばかりであるのが現実ならば、日本の社会はあまりにも貧しすぎるのではないだろうか。